2015年12月26日土曜日

「差別・排外主義にNO! 11・21講演集会」報告


 去る11月21日、講師に崔真碩(チェジンソク)さんを招き、「ヘイトスピーチを越えて」をテーマとした「差別・排外主義にNO! 11・21講演集会」を東京で開きました。
 崔さんは韓国生まれの東京育ち。現在は、広島大学院准教授を務めながら演劇活動も行っておらます。昨年、ドキュメンタリーをテーマとした授業で日本軍「慰安婦」を扱った映画「終わらない戦争」を題材とした際に、不満を覚えた学生が講師本人にでも大学にでもなく産経新聞に投稿した結果、激しいバッシングを受けられました。当時から現在までの経過やその時々の思い等について語っていただき、質疑を通して更にヘイトスピーチへの取り組みの重要性を認識できた場になったと思います。
 まず司会から、当会の自己紹介を行い、次のような現状認識を示しました。
 ここ数年の間に、新大久保を舞台とした激しいヘイトデモはなくなりマスコミ報道も減った。しかし、ヘイト自体が沈静化したわけではない。ヘイトデモも場所を変えて行われており、先日は同日に東京・神奈川の3箇所で強行された。もはやヘイトを生み出す土壌が日本に一定程度根付いてしまったと認識しなければならない。制度的にも在日差別が残存している。更に、現在は安倍を筆頭としたヘイト勢力が権力を握っている。何かの契機で大規模なヘイトが勃興する状況にあるという危機感を抱いて取り組む必要がある。
 崔さんは、バッシングを受けた側がそれをどう乗り越えるか、相手と社会にどう向き合うのか、について話したいと始められました。まず、今回の件を「産経事件」と名付けて当事者としてこれまでの1年半を振り返るお話から始められました。
 05年に初めて教壇に立ったときから、腹をくくって慰安婦問題を題材としてきた。複数の講師によるオムニバス形式のドキュメンタリーに関する授業も今回で3年目。学生が産経新聞に実名で投稿したことにも驚いたが、講師も学校も飛び越えてマスコミに向かうという事例は教育史上前代未聞ではないか。その後に本人とはまだ短時間しか話せていないが、「ネット右翼」などとひとくくりにせず一人の人間として向き合っていきたい。記事の掲載については前日に担当記者から電話で通告があったが、まさか一面掲載とは思っておらず目にして驚いた。記者に報道によって起こる波及の重大性について検討するよう求めたところ、自分のコメントを正確に載せることにはなったが、それ以上の収拾は記者にもできなくなっていたようだった。組合もないスクープに飢えたチープな新聞社の中で身を立てるために自分を壊しながら仕事をしているという印象を、記者には持った。まだ実際には会えてはいないが、やはり「ネット右翼」「産経新聞」とくくらずに個人として向き合っていきたい。学生も記者も産経新聞も、所詮は権力に鉄砲玉として利用されている存在。小さな事件を大きく拡大する役割。今回の産経新聞報道は、構造的に朝日新聞バッシングのダシでしかない。しかし、この件について多くの人が沈黙を保ってしまった。この声を上げられない状況が恐い。大学は声明を出さなかった。財源を握る文科省の顔色を伺い、事なかれ主義を貫き沈黙した。組合さえ動かなかった。政治に関与すると分裂するという口実で、もはや賃金の話しかできない状態。但し、自分にとっては見殺しにされたということ。しかし、それを主張すると職場が分断されてしまう。これは権力の思う壺であり、避けなければならない。幸いまだ授業内容への干渉ができる状況には至っていない。もとより大きな数ではなかったが、今回の件以降に受講する学生の数は増えた。興味を持って臨む学生が相手なので授業も順調。ねばり強く闘っていく授業を続けて、職場関係も作り直していきたい。そもそもヘイト勢力は一握りでしかなく、むしろ沈黙する8割の大衆が怖い。この沈黙するマジョリティーに届く言葉を模索したい。手段としては非暴力を貫くが、これは暴力はいけませんなどという甘ったれた態度ではない。やってしまうと自分の魂が失われるように思える。怒りを失わずにやり返し続ける根拠にもなる。(この点に関しては、交流会で2名から異なる持論が提出された)。そもそも関東大震災での虐殺から100年間、日本の社会の中にこの空気が続いている。後ろから刺される恐怖・暴力の予感をずっと抱いてきて、半分死んだ感覚が続いてきた。そのため、ヘイトスピーチが出てきたときも冷静に受け止められたし、産経事件でも動揺はせずにすんだ。こういう背景を持った非暴力ということ。
 次に社会全体を俯瞰して、普遍的立場からヘイト問題を捉える話に移られました。
 ヘイトが発生する根拠として、日本の経済的な落ち込みによる「不安」がある。中国・韓国の伸張が輪をかけた。そのためのはけ口としてヘイトがある。「不安」と向き合えない部分がこれに乗る。アベノミクスもオリンピックも「一億総活躍(=一億玉砕)」も皆そのため。私が法務局から受けてきたこれまでの屈辱を、今日本人が受けている。劣悪な労働環境・国家ぐるみの年金詐欺・経済的徴兵制、まさに「在日日本人」。更には原発事故が決定的だった。東京の水は福島より汚染されているし、フクイチも再臨界状態。福島も首都圏ももうどうにもならない状態。戦争や侵略への抵抗は収束可能だが、放射能汚染はどうにもならない。権力者は「国体(天皇制)」護持のために、対策を取らない=汚染をなかったことにする道を選択した。これまでとはレベルの違う「不安」であり、はけ口の必要性は更に高まった。しかし、ソ連がチェルノブイリの5年後に崩壊したことを想起する必要がある。生き抜くためには「非国民」になるしかない。「不安」を冷静に受け入れ、分析して言葉にしていく必要がある。国家を抜きに、現実と向き合ってやり直す準備としての言葉。そうして、どうしようもないヘイトの連中とも回路を開く必要がある。国家暴力・圧力は共に受けている。それを言葉にして、今を乗り越えるきっかけにしなければならない。また、運命共同体である東アジアに日本を開いていく必要がある。国家や排外主義に絡め取られる「国民」にとどまってはならない。そこからはじかれる多数の人々も同じ「不安」を抱えていることに思いを馳せなければならない。
 この後、演劇人として、この日に話された思いを込めた詩を朗読された。最後にふたたび、3・11以降のやり直しの必要性と、「国民」を脱して隣人を内なる他者として内包する個人として立つ視点の重要性を確認された。
 更に休憩を挟んで質問に答える形で幾つもの補足がなされた。大学よりも公立中高の教員が置かれた過酷な状況=授業で政治に触れることができず萎縮・疲弊が進んでいる、天皇主義を超えようとする教員は特に潰されるし、かつて先鋭的であった広島でさえ同様の状況。歴史教育を受けていないが故に学生が歴史を継承していない現実、安倍登場から20年で何も報道されない社会になってしまったこと、この中でこれ以上権力に教育を殺させてはならないし未来への責任を取る道を探らなければならない。公立学校で通名を名乗っていた自分の過去を振り返り、周辺へと追いやられるが故に国家に向かうという自己を欺く過剰適応であったし、そのような自分を言葉で解体して生き直すありかたが今後も必要である。だまされることによって得られる平穏さ、それを進める形で上に頭を下げて弱い物を叩く、それにも通じるものがあるだろう。現在の日本の惨状は何よりも戦争責任を取らずに存続した天皇制に根拠を置いている、という形で全体を締められました。
 この後で参加者から、毎週金曜日に行われている朝鮮高校無償化排除への抗議行動への協力呼びかけ等が訴えられ、集会を終えました。
 この日の参加者は65名。その後に同じ場所で持たれた交流会には30名弱の参加者を得ました。