2014年5月13日火曜日

Column 公立学校の職員だった頃

 1976年4月、私はある政令指定都市の学校事務職員になりました。当時は終身雇用という考えが当たり前の時代でしたが、それまで私は頻繁に職業を変えていました。年齢も30歳に手の届くほどになっていましたが、1年以上続いた仕事はなく、この事務職員という仕事も長続きできる自信はありませんでした。事務の仕事は初めてだったということもありましたが、それ以上に社会に馴染めない性格と諦めていたからでした。それまでの勤続最長記録が10か月でしたから、この事務職員という仕事が1年続いた時は、我ながら感心してしまいました。
 事務職員2年目に入った或る日、配属された学校の校長が市教委からの要請があったとして、「特殊学級」(今は特別支援学級と称されているようですが、当時はそのように呼ばれていました)を設置したいと職員会議に提案してきました。通り一遍の障害児教育の必要性を語った後、その校長は本校に空き教室ができるから是非市教委の要請を受け入れたいと結びました。私はこの会議でどんな議論が交わされるのか興味深く見守っていました。しかし、議論はおろか反対する意見もなく、賛成多数で可決するかに見受けられました。
 因みに、当時の職員会議は当然ながら教師が主体でしたが、事務職員も参加することができました。「教員会議」ではなく職員会議だったのですが、事務職員や学校用務員が会議に参加し意見を述べることを快く思っていない教師もいたようです。当時の学校における最高議決機関は職員会議であると位置づけられていましたから、教師が職員会議に出ないのは言語道断とされたのですが、事務職員の場合は「どうぞご自由に」という寛大な(!)状態でした。
 設置されたら、いずれその「特殊学級」の担任になるかもしれない教師たち、しかも当時のこの学校の教師は障害児教育の基本さえも学んできていない人たちばかり、あまつさえ空き教室ができたから設置するという安易さに、私はすこぶるつきの違和感を覚えたことを今でも思い出します。本当に必要なら、空き教室云々は関係ないのではないか、設置してしまったら今いる児童の中から「その子」を選別せざるを得なくなるし、その時点では責任を持って担当できる教師はいないのではないか等々、考えざるを得ませんでした。ところが、当事者であるはずの教師たちからは何の意見も質問も出されませんでした。
 「次年度から特殊学級を設置する」と決定宣言される前に私は、悩んだ末思い切って手を挙げました。私自身は事務職員であるので、門外漢ではあるけれどもという前提で発言を求めました。空き教室ができたから設置するというのは本末転倒ではないか等々、私は疑問に思ったことを全て述べ、もっともっと議論すべきこと、しかも次年度からというのはあまりにも性急すぎることなどを述べたのでした。その結果、多数意見は逆転し「特殊学級」の設置はなくなりました。
 実は、私が言いたいのはそのことではなく、その後のことなのです。

 それまで私は学校というところに1年以上勤務し、圧倒的多数が教員という中で、私のような事務職員或いは学校用務員、給食調理員も含めて、誰もが平等にそして比較的「民主的に」共存共栄しているところと感じていました。
 しかし今思えば、それは波風の立っていない平穏無事の状態だったからかも知れません。学校という場もさることながら、教師という職業柄「平等」は常に念頭に置かねばならない命題だったはずです。そうしなければならないという観念と、実態としてそうであることとの区別がついていなかったのは、この世界も同じことでした。隠された本音は意外なところで暴露されるものなのです。
 私が「特殊学級」の設置に反対したことが、思いもかけないところで噂になっていたようなのです。伝え聞いただけで正確ではないかもしれませんが、「事務職員ふぜいが余計なことを言った」云々、要するに職員会議に出席させてやっている事務職員に重要な議題がひっくり返されてしまった、というような内容だったと思います。「事務職員」という職業を明らかに一段下に見ていたということでした。うすうすは感じていたことなのですが、この時はっきりと確認できたのでした。校長も(特に市教委に対して)自分の顔がつぶされたと感じていたのか、私に恨みがましいことを言ってきましたし、どういうわけか「部落」の問題まで持ち出し「寝た子を起こすな」が一番と声を大にしていました。とんでもない教育者です。
 多分この件がなければ、温厚で善良な校長と思っていたことでしょう。この校長さん、よほど腹に据えかねたのか、区校長会の席でも愚痴っていたとのこと・・・。いずれにしろ、この件で問題になったのは障害児教育とは何なのかということでは全くなく、別の次元の問題としてこの件は雲散霧消してしまったのでした。そのことがあった2年後(この学校に勤務して4年後)に私は別の学校に転勤したのですが、それから間もなく「特殊学級」が設置されたと伝え聞きました。

 私が当初抱いていた(辞めるかもしれないという)予感は外れ、紆余曲折はあったものの、結局、定年退職まで学校事務職員でいることができました。その間、一部教員集団の中に根差していたと思われる差別意識に触れることもしばしばありました。それはまた、別の機会にお話ししたいと思います。

 いずれにしろ、全ての教師に(それは事務職員も含めてなのですが)、差別的な(潜在)意識があったと言っているわけではありません。ただ気になるのは「教師だから差別はない」という意識なのです。確かに教師は「差別」を認めてはならないし、自らの言動自体もそうでなくてはならない存在です。しかし、当たり前のことですが「教師」という名称が差別意識の不在を証明するものではありません。時としてその違いが分かっていない「先生」に出くわしてしまうのは残念なことです。

 私は定年退職するまでに6校を経験しました。転勤先の校長に面白い方がおりましたので、最後にその方をご紹介したいと思います。
 初対面の印象では、威風堂々というか、職場ではかなり威張り散らしているという感じの方と私は思いました。職員の間でもそのように噂されていました。保護者はもちろん、近隣住民や町会長なども深々と頭を下げるほど「尊敬」されている方と思われていたのでした。教師たちも戦々恐々というふうで、触らぬ神にたたりなしと誰もが敬遠していましたから、統率が取れまとまりのある職場と思われていました。しかし、実態はそうではありませんでした。結果的には、そのしわ寄せが子どもたちにも及んでいたのです。外からの評判は極めてよかったのです、(私が)その学校に転勤すると言うと皆が口をそろえて、あそこはいい学校だと言っていたのでした。実際、中に入ってそうした評価の意味が皮肉な形で分かりました。私は他の職員のように従順ではありませんでしたが、「事務職員」だからそれができたのかも知れません。
 いずれにしろ私が転勤した2年後、その方は定年で職場を退き、普通のおじさんになりました。ある時そのおじさんが、当時の威厳を保ちながら学校を訪れて来たのですが、もはや当時の「神通力」は全く通じなくなっていました。
 案の定、多くの人は「校長」という役職にお辞儀をしていたのであり、敬意を払っていたのはその役職に対してだったのでした。ところが、当のご本人は(自分の)人格のしからしめるところと大いに勘違いしていただけだったのです。
 当時の学校では、このような「裸の王様」も稀に(と思うのですが)目撃することができたのでした。

2014年4月30日

差別・排外主義に反対する連絡会 K