2014年3月11日火曜日

Column No.04  「職に就くということ」 By でもしか

 2010年の秋、ある在日コリアンの団体が主催する講演集会で目にした光景です。その集会は、在日朝鮮人の人権の現状と課題を考える集まりだったのですが、集会の終り頃、壇上に若い弁護士数人が登壇しました。そして、司会者から「今年から弁護士になったメンバーです」と、一人づつ紹介されていました。
 学生からすぐに司法修習に入った人達なのでしょう、みんな20代と半ばと思われる若さで、初々しさが漂っています。
 それぞれ挨拶するのですが、みんな異口同音に「同胞のために頑張る」ということを発言します。その挨拶に、会場からは大きな拍手と、「頑張れ!」「頑張って!」の掛け声が何人もの人から飛びます。ものすごい熱気でした。若い弁護士達への熱い想いが、ビリビリと伝わってきました。
 ああ、何とうらやましい光景でしょう。就職する時に、こんなに多くの人達から祝福され、そして期待される ‥‥自分が職に就くということが他人のためになるのだということを、この若い弁護士達は肌身で感じたはずです。こんな体験をできる日本人はめったにいません。日本人の場合は、祝福されたとしても、せいぜい家族や友人レベルですから。
 「同胞のために頑張る」という挨拶の言葉に思います。彼・彼女らが弁護士になったのは、「社会のため」「人権のため」という抽象的な動機からではないのです。彼・彼女らの目には「同胞」(いうまでもなく在日コリアンです)という明確な人々の姿と生活が映っているはずです。自分は何のために働くのかが、はっきりとしています。どんなにやりがいのある仕事になることでしょう。たいした目的意識もなく、なんとなく流されて無難な就職をしたわが身をあらためて振り返ります。

 一方でこの光景の裏側には、在日コリアンが置かれた人権状況のひどさがあることを思います。それだから弁護士にあれだけの熱い期待を寄せざるをえない。そう読み変えてみると、これからこの若い弁護士達が直面するであろう多くの醜い現実を作ってしまっている側の人間として、いろいろ考えさせられます。ただ感動しているだけではいけないなあと。