2012年12月21日金曜日

差別・排外主義にNO!1・26講演集会

差別・排外主義にNO! 1・26講演集会
<バッシング>と差別・排外主義を考える

跋扈(ばっこ)する<バッシング>現象と<在特会>現象ーその関係とは?
通底する問題とは?
背景にある構造とは?…



日時:1月26日(土) PM6:00~

場所:豊島区民センター4F
講演:森 達也さん
資料代: 500円
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 森達也さんプロフィール
1986年 テレビ番組制作会社に入社。デビュー作は小人プロレスのテレビドキュメント作品。以降、数々の作品を手がける。
1998年 オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタ リ-映画『A』を公開。
2001年 続編『A2』が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。現在は執筆が中心。
近著に、『A3』、『僕のお父さんは東電社員です』、『311を撮る』(共著)などがある。
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皆さんご存知の様に、この数年来、「在特会」勢力は至る所で、「妬み」等の劣情を刺激し、差別・排外主義を煽り、「在日」等の当事者に対し脅迫、妨害、襲撃の蛮行を繰り広げています。そして、ネットの映像でそれを見て拍手喝采し、「スカッと」する多くの人々が存在します。
また、一方で、この国では、いわゆるバッシングが跋扈しとどまることを知らない社会現象になっています。集中砲火のターゲットになった事例は、「オウム信者」、「イラク人質若者ボランティア」、「光市事件弁護士」、「オーバーステイ外国人」、「朝鮮学校」、「公務員」、「生活保護受給者」等々とちょっと思い浮かべるだけでも枚挙にいとまがありません。バッシングに血眼になるテレビ、マスコミとそれに拍手喝采し、「スカッと」する多くの国民の「共犯関係」の構図が浮かび上がります。更に、政治家までも人気取りのためかバッシングの急先鋒としての役割を演じている有り様です。

私達は、これまで、「震災下」、「ヘイトクライム」、「世界のレイシズ」等の視点から、<在特会>勢力ー差別・排外主義について考える集会をささやかながら開催してきました。それは、差別・排外主義について様々な視点、角度から考え深めることが、それを社会的に包囲し封じ込める大きなうねり=様々なスタンス、問題意識の人々による広範なネットワーク作りの足がかりになれば、と考えるからです。

さて、今回、私達は、『<バッシング>と差別・排外主義』と銘打ち、講演ー討論の場を設けることにしました。
その意図は、「<在特会>勢力の登場とそれに拍手喝采する多くの人々の存在は、<バッシング>現象とどのように関係しているのか?」、更に言えば、「この国の深部に歴史的に連綿と巣くう差別と排外主義が<バッシング>現象の背後に横たわり、それを支え、そして、<在特会>勢力は意図の有無は別として、「巧み」にその構造に乗じてきたのではないか?」等、これらの問題を講師の提起を受け皆さんと共に考え、探っていければと考えます。

皆さん、1月26日集会に是非とも参加してくださるようお願いします。

2012年12月16日日曜日

Column No.03  「ある会議の情景」 By 梅


「私たちの連絡会は、やはり数年前の蕨でのカルデロン一家、とくに中学生のN子さんに対する憎悪と醜悪さに満ちた在特会たちの嫌がらせに対する怒りから出発しているのだと思います。それは弱い立場に立たされた人間に対するほとんどいじめにも類する、とても卑劣な攻撃でした。しかし、それはそうであるけれども、だからといって私たちは彼らと同じスタイルでの対抗的行動を延々と政治的にやればいいということではないと私は思います。たとえ、そうしたデモンストレーションを繰り返しやったとしても、それは苦悩する当事者についに届くことのない身勝手な部外者の闘いであると思うのです。むしろ問題はさまざまな隠された小さなところで、限りなく進行する差別と迫害の現実に無力でありながらも、どのようにともに連携していけるのかという、そんな繋がりが問われていると思うのです。だから私たちは、パフォーマンスに対するパフォーマンスではなく、延々と続くこの私たちの地のおぞましい状況を、具体的なところからなんとかしたいとおもってここに集まっているのではないでしょうか。たとえそれが無力なものではあっても、やはりかすかな声は私たちでも出せるのだ。私たちの声のつながりを求める闘いはやはりそこにあるのではないでしょうか」

 Aさんが訥々と語る。その一つ一つの言葉にぼくは目を伏せながらある種の暗い思いを持ちながらもうなずく。そう、そうなんだ、それこそが僕たちの出発点だったのだ。それにしても、このある種の絶望感は何なんだろうかと自問する。
多分、私たちはとてつもなく困難な敵対者に遭遇し続けている。第一に、およそ「良心」というようなカテゴリーがまったく通用しない者どもに僕たちは対峙しているのだ。彼らの陰湿な精神は、あたかも影でいじめを楽しむような、そうしたひそやかな匿名性の愉悦に彩られている。これまで、口にすることもはばかれた言葉が跋扈している。つまり最後の良心がついに失われた地点で罵言が吐き出され、そのカタルシスに匿名性のネット右翼は酔いしれる。これは差別の状況の中でいつも見られた光景だ。そう、いつも繰り返されてきた光景なのだ。よく見つめてみるべきだ。

 差別や排外主義が跋扈するとき、特徴的な傾向がある。迫害された人間たちの沈黙と、迫害する人間たちの饒舌という非対照的な対比だ。ひとはひとを傷つけたとき、いくらでも傷つけたほうはそのことをリセットできる。しかし、傷つけられた沈黙者は、どのような言葉の展開が巡ろうと、そのことのうちにとどまり続ける。つまりその「裂け目」はどのような言い繕いがあろうとも残り続けるということだ。

 Aさんはこうも言っていた。「私たちは迫害される人を助けるために活動しているのではない」と。そう、この社会での不当なことにたいして、声高に「正しいこと」を叫ぶ前に、僕たちはそれを作り上げている僕たちの日常と闇に目を向けなければならないのだ。そうして、もし、苦難の中で悔しさと憤りを刻印されながらも、しかしなお「沈黙と沈思」にある友があったとしても、私たちはその「沈黙の闘い」にこそナイーブに反応し、傍らに佇まければならないのだ。なぜなら、その沈黙は私たちのものでもあったからだ。そしてもっと大事なのは、それは非対称的なもの、一方的なものではなく相互的なものでなければならない。佇んでいるつもりが、実は佇まれているということにひとは気づくべきなのだ。ひとは深刻な状況にあるとまず黙る。考える。解決は遠い。それでもなお、ひとは声を出す。なぜか。簡単なことだ。それだけ社会が腐っているからだ。スローガンには注意しなければならない。私たちは白馬の騎士ではない。登録商標には注意しなければならない。正しいことには気をつけなければならないのだ。

おおむね表現することが苦手な僕らのミーティングであったのだが、突然に前回のコラムに書いた信濃さんの言葉がぼくの脳裏に浮上する。それにはこうある。
「あえて言えば『差別・排外主義にまみれている』からこそ、それを克服するために活動しているのです。」
すがすがしい言葉だ。そして闘うことの意味としてぼくの情感にグサリとくる。
ひとを傷つける「快感」に比べれば、「良心」などというものはおそらく何ほどもひとをひきつけるものではないだろう。「通邸不能」という言葉が真っ先に鳴り響く。それでもやはり僕らはある最後の砦の上に屹立する必要があるのだ。私は通俗的でありいつでも憎しみの世界に陥落しやすい。でも多くの人がののしりの快感に酔いしれたとしても、100人のうちの一人であれ、私は孤立してもいいと思う。最近映像を作ろうとしているのだが、そこでは昔なつかしサルトルを引用した。

「彼らは憎悪を選んだ。憎悪がひとつの信仰となった。言葉と理性をはじめから無価値にすることを選んだのである。」(サルトル『ユダヤ人問題』)